匠弘堂を知る

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宮大工としての心構え「見えるところは当たり前、見えないところほど気配りをせなあかん。それが建物を強固にし、 百年、二百年と美しさを保つことができるんや。解体しても恥ずかしくない仕事をせい。」 (初代宮大工棟梁 岡本 弘の言葉より)

[ 匠弘堂の柱、岡本棟梁 ]

宮大工というものに限らず、伝統の技術と言われるものの多くは、いわゆる口伝であり、師匠が手取り足取りその技術を教えるというスタイルではありません。
弟子は師匠がする仕事を見て盗み、自分で習って身につけるものなのです。

岡本棟梁は違いました。
聞けば、誰にでも平等に丁寧に教えてくれたのです。このおおらかな気持ちと仕事に対する厳しさと情熱に、人間として尊重し、心を揺さぶられた職人たちが集まり、強い結束力を生み出しました。

「匠弘堂」の基本、
柱となっているのが岡本棟梁です。

元匠弘堂相談役 宮大工初代棟梁
岡本 弘
(昭和8年、岡山県生まれ)

15歳の頃、大工だった父親の手伝いを始める。大工としての初仕事もこの頃。
水害で壊れた木造の橋を修理した際に、柱に橋の名前と年月日を彫刻した。まだ中学を卒業したばかりの少年だった岡本棟梁に、父親は「彫ってみるか」と声をかけたという。これまで彫り物の経験などなく、見よう見まねで彫り上げた柱をみて、父親は「まあ、こんなんでいいわな」と言い柱に納めてもらった。
それから60年以上の大工キャリアを持ち、独学で社寺建築の極意を切り開き、宮大工棟梁となる。主な作品に奈良吉野神宮、広島県速谷神社、尼崎東光寺門戸厄神、西宮善導会五重塔、奈良丹生川上神社等、多数。「たくさんの人との出会いが私の宝。次は後継者の育成に尽力したい。」好きな言葉は「男たるもの『のふうぞ』(岡山弁の“やんちゃ”)たれ」
趣味は釣り。酉年、AB型。
岡本棟梁の実績をみる

[ 岡本棟梁の最後の笑顔 ]

「親戚の子どもにでもあげようかなあ。いろいろ世話んなった。」久方ぶりに岡本棟梁がご家族に付き添われ、京都の工房に来られた際、長年使い込んだ自分の大工道具を見ながら笑顔でつぶやいた言葉です。それが最後に見た岡本棟梁の笑顔でした。

あの時の棟梁の笑顔は、誰に、何に向けたものだったのでしょう。
長年苦楽を共にした道具や、人生を共にしたご家族、あるいは匠弘堂のみんな・・・。

有限会社 匠弘堂 宮大工名誉棟梁 岡本弘が2015年9月14日、享年82歳にて逝去いたしました。
ここに謹んでお知らせ申し上げます。

先般、岡本弘棟梁の永眠の際には、関係者皆々様よりご懇篤なるご弔詞ならびにご厚志を賜りまして、誠にありがたく厚く御礼申し上げます。生前に皆様方より賜りましたたくさんのご芳情に感謝し、今後とも故人同様のご厚誼を賜りますよう何卒よろしくお願い申し上げます。

私たち匠弘堂社員にとって決して迎えたくない日、その日は突然訪れました。入院する棟梁に、現在の仕事の状況を伝えて安心してもらおうと準備を始めた矢先の、9月15日の朝、訃報の電話が届きました。
仕事も一段落し、お見舞いに伺う予定だっただけに、ただただ無念です。いつかお別れの時が来るとわかっていても、 現実を突きつけられると胸が張り裂けそうになりました。

・・・岡本棟梁、覚えておられるでしょうか。今から約20年ほど前、福岡県から一人の若者が京都に出てきて棟梁の門を叩きました。棟梁はその若者を立派に育て上げました。それが今の有馬です。

その有馬に遅れること約2年。私も有難いご縁から岡本棟梁に出会うことができました。岡本棟梁と有馬の互いの信頼の下に築かれた厚い師弟関係を間近で見て、「この人についていきたい」と棟梁の魅力に圧倒され、私も社寺建築の道に導いてくださりました。

大工技術のこと、人材育成のこと等、まだまだ教えを請いたいことが山ほどありました。
岡本棟梁、語り尽くせない想いが多々ありますが、ひとまず安らかにお眠り下さい。

合掌

有限会社 匠弘堂
代表取締役 横川総一郎

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